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読んだり聴いたりしたものの感想文

リアルとドリーム

 思い出を、超えていけ。

 ……というとわかる人にはわかる、ホークスの(ドーム誕生)30周年記念ドキュメンタリー映画を観てきました。
 最近いろんな分野で「映画館で公開するファン向け映像」が活況を呈していますが、このホークス映画も結構お客さんが入ってて、まあ東京ではお台場のユナイテッド・シネマ一館でしかやってないせいもあるんだけど(福岡だとさすが15館でやってる)ちょっと驚きました。

 試合の映像と選手のインタビューをつないでいくシンプルな構成で、そのシンプルさがかえって、私のようなホークスというチームの歴史や背景を全く知らない、この映画において想定されている観客とは違うタイプの人間に対しても親切だったかな。
 最初、出てくる人たちの名前がわからん!!(顔はなんか見覚えある人もいるけど)とか思いましたが、映像として凝った作りではないだけに、観てると自然とわかるようになってくる(笑)。ある意味ホークス入門編みたいな感じで、最後までとても面白く観られました。
 小久保って巨人の選手じゃなかったっけ? とか、工藤監督の退陣ってちょい前だったよね? 今現在の監督がもう一人いなかった? とかいう疑問などなどは、後で選手やチームのWikiを見れば解決出来ましたしね。
(藤本監督は今回の映像の中ではほぼ「ナレ死」扱いでした。(死んでないけど)
 この辺は勝負事を商売にしているプロ野球球団ならではの合理性なのでしょうか……)
 知らなかった選手ももちろんいた中で、長谷川選手なんかすごく格好いいと思ったなあ。ギータの風貌はどっか関西系のフェスに出てそうなバンドマンっぽかったし。(牧原選手の外見もちょっとバンドマンっぽいよね)
 深読みしたがりな観客としては、それぞれがインタビュー時に着ている服にも目がいきました。巨人のTシャツを着ているとか、上から下まで綺麗にまとめたスーツだったりとかは、やっぱり本人側からの「演出」だよね。自己表現と言ってもいいのか。
 王監督は、もう今は名実心情全てで、巨人ではなくホークスの人間なんだなあ、と思わせるユニフォーム(スタジャン?)姿でした。

 

(ちょっとここから自分語り失礼)
 転職先が決まり、ずいぶんと長く勤めた現在の会社から離れることになりました。
 その際の後任への引継ぎに関して、現在の会社の社長が

 「時々アルバイトで来れないかな?(それで適時後任をフォローしてよ)」

 と言うので、

 「転職先は同業なのでそれは難しいと思います」

 と答えたところ、ひどく驚かれてしまったのです。
 彼が驚いたのは私がアルバイトに来られないことではなく、私の転職先が同業だということに対してだったので、まあ正直私の方がびっくり。
 私の年齢だと、転職とはイコール自分の今までやってきたことの延長になるのが普通ですし、社長の立場的にもそう考えるのが自然だと思うのですが、彼にとってはそれが意外なことだとは。
 驚く理由はもしかしたら色々あるのかもだけど、まあ一番は「同業だったら長く働いたうちでいいじゃないか」と思っているということですよね。


 現在の会社が、待遇面でも将来的な展望の上でも明らかに下降線を辿っている、と認識しているはずの社長が、案外とそういうことに無頓着だった……ということなのかな? と後から考えたのですが、業績悪いことは自分でも口に出して社員にハッパをかけている訳ですから、さすがにそれは考えにくい。
 そして、やめる私に声をかければ、こちらの都合に合わせて来てくれるだろう、と気軽に思ってるところからすると、よく言えば私を信頼している、悪く言えば私を舐め切っている、ということなんだろうなあ、と。
 社長としては、
「(待遇や職場環境が悪い中、長く一生懸命勤めたこいつは)うちの会社のことが好きだし、俺のことも決して悪く思ってはいない」とか思ってたのかもしれません。
 でも、社長の描いていた私のストーリーと、私自身のストーリーはかなり違っていて、それでお互いに驚いてしまっているという。
 社長としては、ここで初めて自分が否定された(⇦そんな顔をしていた)気持ちになったのかもだけど、こういうのって世間的にはよくある話なのかもなー、と思いつつ、
何かひとつコト(今回は私の退社)が起こった時に、それぞれの持つストーリーの違いが判明すると言うシチュエーションが私には久しぶりで、ちょっと変な言い方になるけど人生って面白いなと思いました。
(少し腹も立ったんだけどね。現状と今までを考えれば、社長の最初の認識は甘いの一言に尽きるので)

 

 ホークスの映画を観て一番強く感じたことは、
選手だったり監督だったりのそれぞれのストーリーはハッキリとあるんだけど、それが「成績」「成果」「優勝」などの目に見える結果に集約されることによって、それらの各自のストーリーがひとつの「ホークスのストーリー」にまとまっていくんだな、スポーツってわかりやすくていいなあ、ということです。
(そういう風に編集されてる映画なんだから当然だろ、とか言ってはいけません。一編の映画っぽくまとめるのに必要なリアル素材が豊富にある、という時点でやっぱりそれはすごいことなので)
 映画内の育成選手のパートで、ドラフト上位で入った選手との対比が演出されていましたが(これはその上位選手からすると結構きついまとめ方ではある)後の成績や状況からすると結局それは事実のストーリーなので、誰も文句は言えないし、きついけど一応納得できてしまうという。
 普通の一般人の人生ではそう何度も味わえない「リアルが作るドリームなストーリー」をシーズンごとに観戦できるわけですから、野球観戦に夢中になる人がたくさんいるのも至極当然ですよね。

 

(ここから話が大分ずれる)
 このね、説得力のあるストーリーを作り出すにはリアル素材が必要だ、というのが一番残酷な形で表面化してしまったのがこないだの「セクシー田中さん」事件だなあ、とも思ったのです。
 すごく悲しいことだけど、渦中の原作者が亡くなってしまったという強烈なリアルこそが、今まで常態化していた漫画のドラマ化の際の理不尽を炙り出して、今まで続いてきた既得権益団体なあなあストーリーを燃やし(⇦炎上のことです)書き換えようとしているという。
 当初はまさに、原作者と(脚本家含む)ドラマ製作者との「ストーリーの違い」が問題になっていたわけですが、
 おそらくね、漫画家というストーリー作りのプロであっても、漫画(=理想=ドリーム)を描くといういつもの自分のストーリーの中にいるままでは、今回のようなリアルストーリー書き換え状況を生じさせることは不可能だったと思うんだよね。
 そしてそれは、ストーリー作りのプロである彼女が今回の件で一番、「理解してしまった」ことだったんじゃないのかな。
 彼女が描いた漫画を読んでみて、もしかしたら彼女は絶望したというよりも、告発…いや、そのもうひとつ先の、クソな現実ストーリーを変化させるための体当たりとして自分の身を捧げたのかもしれない、とか思ってしまった。こういう考えに至るのは非常に不遜なことなのかもしれないけれど。
 もしそうだとしたら、まさに Rage Against the Machine だなあ。
 自分達の作る音楽が、焼身自殺という強烈なリアルと同じくらいの強度をもって、現実変革のきっかけとなるリアルなものとして存在したい、という祈りなのだね、あのジャケって。
 そしてあまり気付きたくないことにも気付いてしまった。
 つまり、音楽やっている人って究極的には、自分の創る音楽(だけ)で、何かのリアルストーリーを動かしたい、書き換えたい、と願っているということなのかも。(そしてそれは漫画と同じくとてもとても難しいこと)
 でもその難しさを乗り越えて(自分自身が提供するリアルでなく)音楽を創ることによってその超貴重な手応えを得たい、と、贅沢過ぎ! なことを考えてるのかもしれないなあ。
(いやほんとそれって「有り難い」ことだからね……)

 

(続く)

 

 

 

スピッツ ひみつスタジオを聴いて(その1)

 大ヒットを記録したコナン映画の主題歌「美しい鰭」が収録されているスピッツ17枚目のアルバム「ひみつスタジオ」。
 最初に聴き、クレジットを確認して思ったことは、
「超強力な女性(女声)陣にバックアップされたアルバムなのね〜」
 ということですかね。

 列挙するなら、
 「未来未来」の朝倉さやさん(彼女の声がなければこの曲は成立しない)、
 「讃歌」のコーラスの佐々木詩織さん、
 「美しい鰭」は(言うまでもなくコナンレジェンド声優)高山みなみさんと林原めぐみさん、
 そしてカバーガールの井上希美さん。

 井上さんは歌ってないじゃん、という声が聞こえますので一応注釈を加えると、彼女は劇団四季美女と野獣」のベル役を演じた、堂々と主役張って ”歌える” 元女優さんなので、(wikiを拝見するといろいろ興味深い)
このアルバムは全編に渡ってずっと、彼女の声が優しく響いていると言い切って構わないと思う。
 でも井上さんはどの曲でも歌ってないじゃん、という再びの声が聞こえますが、今回の彼女は、耳で聴くタイプのものではない歌を歌っているのです。
 もし貴方の目の前にアルバムのジャケがあったら見てみて欲しいのですが、
 今回のアルバムのテーマカラーであるこの黄色、ばっちりベルのドレスの色です。

 

 「ひみつスタジオ」は、これまでの「醒めない」「見っけ」と併せ、「異形のものと私」をテーマとした三部作最終章となっている、というような内容のコメントがメンバーからあったようですが、
美女と野獣」、そのまんま、異形クリーチャーと私、ですよね。
 引退した女優さんをわざわざ引っ張り出して起用したその理由って、カバーモデル当人においてもこのテーマを表現することを強く意識したからなのではなかろうか。 
「真実はいつもひとつ!」とは言い切れないけど、これってそこそこ有力な仮説と言えるのでは?

 まあこれは何というか、推理というよりむしろ連想ゲームの類ですので(ジャケ見て井上さんのwikiを確認すれば5秒で出てくる)、絶対私以外にも仮説立ててる人、いるはず。
 でも目立つところに上がってきてない(少なくとも私は未確認)ところを見ると、こうした視点の物言いって現在、世間的にあまり需要がないのかもしれないなあ。

 で、ちょっぴり悲しくなりながらその線で推していく(←推測の方の「推し」です)と、他にも異形クリーチャー、いろいろ出てきますね。

 朝倉さんが参加している「未来未来」、彼女の声は映画「ブレードランナー」の近未来設定に現れる、ジャパナイズな広告のサウンドがイメージだ、とかいうコメントもあったらしい。
 そういえばあの映画のテーマって、「レプリカントと人間(で、人間とそうでないものとの違いって何?)」的なものでした。
 「さびしくなかった」のイメージソースとなったという「ヒア・アフター」は、「(普通の人と違う)霊能者と僕」な映画だったしなー。
 こうした幾つものイメージレイヤーを念入りに重ねた上での、「異形のものと私」なわけですね。
 というか、そういやコナン君と哀ちゃんも「(普通の人と違う)異形の能力者」じゃないですか・・・。

 

 普通の人間と違う、でもとても人間的なもの(美女と野獣の野獣然り、ブレードランナーレプリカント然り)を、「ひみつ(の)スタジオ」で制作側が創り出したかったと考えると、
 どうかな? i-o君はそうしたテーマをちゃんと背負い切れているでしょうか。
 先に言ってしまうと、コナン映画の主題歌を、当初候補のひとつに挙がっていたi-o君の歌ではなく、美しい鰭にしたのは正解だったと思います。
「異形のもの」に寄り添う「私」を描いた(つまり「名探偵コナン」によりふさわしい)曲は、やはり美しい鰭の方だったので。

 

(続く)
 

 

 

 

 

 

 

『さよなら絵梨』を読んで(その②)

 母親の死の際にはさよならを言えず、自分はそこから逃げながらの爆発シーンとしてしまった優太が、最後、絵梨にはきちんと決別した上での意志的な爆発シーンを描くことができた、それは端的に彼が成長した、ということの証です。

 …というのがまっとうな解釈と言えますが、まあそれだけじゃつまんないのでもうちょっと構造的に見てみます。

 優太にとっての「爆発」は、何かどうしようもないものへの「反抗」です。
 母親Ver.の時の爆発は、まず肉親の死という避けがたい運命、その死を撮るようにと命令してくる母親、そういう自分を追い詰めてくる悲しくてつらいものをぶっ壊してやりたい、という心情の表れでした。
 では絵梨Ver.の時の爆発は、何に対する反抗なのでしょうか。

 思い出の場所で再会した絵梨は、
「自分は本当に吸血鬼であり、永遠に生きる存在だ」という驚きの事実を述べます。そして、優太が撮った映画が、自分がどんな人間か、どう生きればいいのかを教えてくれると語り、だから一人で生きていくのもつらくないし、自分が何度優太を忘れても、映画を見れば何度でもまた優太を思い出せる、それは素敵なことだ、と語ります。
 …それは確かに素敵なことなのですが、でもね、優太はそこにこそ反抗したかったんでしょうね。
 

 優太が撮った絵梨の映画は、彼女の一回しかない生を撮ったもののはずでした。一回限りの生を絵梨と優太が一緒に生き抜いた、その記憶があの映画だったのです。そしてその意味で優太は強く絵梨を愛していたといえる。
 しかしここで絵梨は(生き返っても本物の優太に会いに行っていないことからもわかりますが)生きている今の優太ではなく、映画の中に閉じ込められた昔の優太と自分を眺めるだけで満足してしまっています。
 それは多分愛ではないですし、本当の意味で「生きる」ということではない。そういうのが「死なない」存在ならではの心の動きだとするならば、もしかしたら、愛には生の一回性がどうしようもなく必要とされるのかもしれない。


 家族をいっぺんになくしてしまい、まさに生の一回性からくる残酷さに打ちのめされて、絶望の底で自死を考えていた優太が、それをやめて絵梨にさよならを言えたのは、ここでの絵梨が象徴する「再現可能な永遠」に猛烈に反抗し、「一度きりの生」をこそ自分は映画として撮ってやる、という、愛の決意からくるものなんだろうなあ、と。
 そうなると、例えどんなにつらくても、自殺なんかしてる場合じゃないのです。
 そういう映画を撮るためには、一度きりの生をまず自分が生ききらなければいけないわけですしね。

 この世は死で満ちている メメントモリ 以上優太でした さよなら

 これは母親を撮った映画をボロクソに言われて自殺しようとした昔の優太の独白です。絵梨との再会場面が(映画の中の)この台詞から始まるのはもちろん作者の強い意図からくるもの。

 繰り返しの場面なんですよね。死と絶望で満ちているこの世にさよならを言う、昔と今の優太。
 でも最後優太の口から出た「さよなら」は、この世に対してではなく絵梨に言ったものでした。
 そして今度の台詞の(優太が口にしていない)前半は多分こう↓なっている。

 この世は生で満ちている


 ちなみにこっち↓は絵梨に映画を誉められた後の優太の台詞。

 皆さん…知ってますか……生命は美しく輝いていて……綺麗なのです 

 

 つまり同じ事なんですよね。死で満ちているということはイコール生で満ちているということであり、生と死は分かち難い一体のものであること。
 そうした生と死の絡み合いから遠く離れた永遠の存在である絵梨に対し、さよならを告げる大人の優太。 

 

 母親Ver.爆発:人の死すべき運命への反抗

 絵梨Ver.爆発:永遠の生への反抗(=一度きりの生への肯定) 

 

 図式化するとこうだよね。(こう書くと大分つまんなくなっちゃうけど…)
 つまり、自分の個性である「爆発シーン」によって映画の中に描きこみたいテーマが、母親Ver.と絵梨Ver.では変化した(…成熟した? ……勇気を持てるようになった?)ということ。
 だからラストシーンの爆発の大きさと迫力は、絶望による自死の決意を翻すほどの、優太の映画(=優太の生)への愛に比例しているものなのでした。

 別の言い方をすれば、「ずっと何か足りない」気がして編集し続けていたあの映画が、やっとここでしっかり完成したといえる。
 絵梨の死を描くことで、同時に彼女の(一回きりの美しい)生を描いたはずだったのに、結局お涙頂戴(=死とは悲しくてつらいもの)の内容になってしまい、本来のテーマである「彼女の生(の素晴らしさ)」が描き切れていなかったのです。
 あのままの映画だと、彼女が生ききったことに対する大きな意味での肯定にはなっていなかったんだよね。
 実はその気付きを優太に与えるため、永遠なる存在として復活した絵梨だったのかもしれません。
 彼がピンチに陥ってこの世から去ろうとする時に現れるのが彼女の持つひとつのパターン(3日後に蘇る=救世主あるあるパターンなのは言うまでもなく)なので、この後優太と絵梨が会うことは二度となかった、ということはつまり、優太が自殺しようとすることはもうなかった、ということがわかります。
 そして今度こそ絵梨の映画を完成させて、

ちゃんと生きようと また映画を作る自信を貰える  おわり

 

 になったというわけですな。

 

 

 


 ……うーん。ルックバックもいい話でしたが、構成の完成度っぷりはとにかくダンチでこっちが上。
 そして私的に、テーマが持っている普遍性も断然こっちが好みだったりする。

 うーん、いやあ、タツキさすがじゃん~~~ほんと~にすごすぎだろ~~!!!! と不遜以外の何者でもない感想をついつい抱いてしまう。彼が今私の近くにいたら、背中バンバン叩いちゃうかも。

 

 

 

 

(おまけ)

 「永遠に生きる」絵梨を吸血鬼というクリーチャーに設定したのにも、作者はちゃんと意味を持たせていると思います。
 「僕のエリ」という映画がイメージソースになっているそうですが、そもそも吸血鬼って血を吸う存在ですよね? そして私のポーな記憶が正しければ、吸血鬼に血を吸われた人間も吸血鬼になっちゃうんだよー、というお約束があったはず。
 絵梨が母親(的な立場を持つ絶対者)の再現である、という解釈はこの話を読む上でわりと王道なものだと思いますが、うーん、まず最初に母親が優太の血を吸っちゃっているんですよね。
 TVのプロデューサーだったという優太の母親は、自分が死ぬことをネタ(?)にして息子に映画を撮らせようとしちゃう、何というかひどく極道な人ですが、生と死こそが撮る価値のあるものである(時には何かを犠牲にしても)という彼女の考えは、ばっちり息子に引き継がれているといえます。
 映画を撮る(…漫画を描く?)ことは、時として人の血を吸うことに近い、という裏テーマも、父親の台詞から何となく感じ取れたような。
 そうやって撮られた映画が「永遠の」存在となり、それを見た人間もまた吸血鬼化してしまうことがあるという。
 つまり、優太が再会した絵梨が言うところの「……それって素敵なことじゃない?」の素敵さも、全然否定してないストーリーなのですね。 

 うんうん、やっぱり名作だなあ~~~

 

 

『さよなら絵梨』を読んで(その①)

 『ルックバック』に引き続き話題になっていた『さよなら絵梨』。
 様々な解釈がネット上では見られましたが、あの作品のすごいところって結局、テキストを誠実に読み込んだ解釈ならどれも「あたり」であることですね。
 そして不真面目に読み込んでもその読みは「あり」なところもすごい。基本的にどんな読み方も許容してしまう懐の深い話なのでした。
 なのでその懐に甘えて私も自分なりの読みを綴ってみようかと。

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