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読んだり聴いたりしたものの感想文

『さよなら絵梨』を読んで(その①)

 『ルックバック』に引き続き話題になっていた『さよなら絵梨』。
 様々な解釈がネット上では見られましたが、あの作品のすごいところって結局、テキストを誠実に読み込んだ解釈ならどれも「あたり」であることですね。
 そして不真面目に読み込んでもその読みは「あり」なところもすごい。基本的にどんな読み方も許容してしまう懐の深い話なのでした。
 なのでその懐に甘えて私も自分なりの読みを綴ってみようかと。

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 読み終わって私がまず疑問に思ったのは2点。
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 ①大人になった優太が絵梨と一緒に映画を観なかったのは何故か?

 ②優太が最後に絵梨との思い出の場所を(イメージ上ではあっても)爆破してしまうのは何故か?
 (あれじゃ、あそこで自分の映画を観てる絵梨もこっぱみじんになっちゃうじゃん!)


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 ……これ不思議に思いますよね?
 と書きつつ、ここに疑問を感じてしまう私は単に子供っぽいだけなのかもしれない。ラストシーンの優太と同じ目線を持っている大人な人なら、あそこは感覚的に理解できるトコなのかもだし。
 ただ何回か再読して考えてみると、
 ラストシーンはこれ(=爆発シーン)以外ありえない! とも思うのでした。

「今度こそ全員ブチ泣かせてやらない?」

という絵梨からのミッションを見事クリアした(ピースもしていますね)優太だったのですが、その後執拗にこの映画を再編集し続けるのは “何か足りない気がした” から。
 足りなかったものは最後に判明します。 

「恋人が死んで終わる映画って在り来りだから後半に飛躍が欲しいかな…
 ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?」

 (優太の)ファンタジー=爆発*1


ですので、その足りなかった爆発を最後きっちり描いてこそ話が完成するのだ。…というストレートな代入からの解答がまずひとつ。
 もうひとつは、全体のストーリー構成がラストの爆発を必然的に要請している。…という解釈かな。
 お涙頂戴的な話を求め、それが裏切られるとクソ映画とこきおろす、そんな観客へ “恋人が死んで終わる映画” というお涙頂戴そのものの話を再度ぶつけるのは、例えそこで観客を泣かせることができたとしても、正しいリベンジとは言えない。
 本当のリベンジは「ラスト爆発で終わらせた映画で観客をブチ泣かせる」ことができた時に達成されるはずです。
 そして言わずもがなのことですが、涙というのは必ずしも悲しみの表出ではないわけで。心が強く揺さぶられた時に目から出てくる液体が涙なのですから、笑いすぎて涙が出るなんて普通のことですし、もっと言ってしまえば、
「なぜか理由がわからないけど涙がこぼれてくる」という謎な状況こそを自分の創る映像で引っ張り出したい、そう強く願っているのがいわゆる映画監督と呼ばれる人達なのではないでしょうか。
 というわけで、リベンジ映画公開時に絵梨が観ていればこのへんは即突っ込みが入ったはずだけど、それは出来なかった(その時点で絵梨は死んでしまってますし)から、時を越えた吸血鬼絵梨として指摘しにきたのでしょうね。
 人間(に擬態した?)絵梨が優太に対し、「ブチ泣かせてやらない?」の次に与えたミッションを読み返しても突っ込みどころがわかる。

優太「…ずっと聞きたかったんだけどさ 僕ん映画のドコが面白かったの? 面白いって言ってるの世界でアナタだけですよ
 みんなクソクソ言うからさ どこ面白いのか僕もよくわからなくなっちゃった」

絵梨「まず病院から逃げるトコ
 あの映画では良い話の様に進んでたけど 中学生の息子に死ぬ所を撮らせようとするなんて残酷な事じゃない? だから優太が病院から逃げて爆発した時にスカッとした
  「次に感動したのは母親を綺麗に撮っていたトコ
 あんな風に綺麗に撮って貰えたのなら私だったらとっても嬉しい
  「あと貴方のキャラクターが好き 良い 映画のタイトルは母親なのに一番魅力的だったのは優太だった
 だから今度の映画も他人事じゃなくて 優太の話を見たい

 ここを読み替えれば “映画のタイトルは絵梨なのに一番魅力的なのは優太” である “他人事じゃない優太の話” が描かれた映画にしなくてはいけないことがわかります。
 だからこの点からいってもあのリベンジ映画はリベンジしきれていない。一生懸命母親を撮った自分を馬鹿にされたのだから、今回は一生懸命絵梨を撮った自分をこそ、魅力的な主人公として映し出さなければいけないわけです。
 で、最終リベンジ映画(つまりこの『さよなら絵梨』という漫画そのもの)で優太は、一生懸命自分を撮った自分(+ひとつまみのファンタジー)、という完成形を示したということになります。
 ラスト見開き画面一杯に広がる爆発光景の中で判明するのは、「ひとつまみ」という表現が実は全然「ちょっぴり」の意味ではないということ。ひとつまみの爆薬でも、そこに火をつけることで驚くほど大きな爆発をひき起こすことができるのでした。つまりこのひとつまみがどうしようもなく強い力で話全体を支配してしまっている。*2
 このあたりはおそらく、この話の真の作者である藤本タツキの個性でもあるんだろうなあ。

 
 この『さよなら絵梨』が(タイトルは絵梨だけど)ちゃんと「優太の話」になっていることは読まれた方全員が頷くと思いますが、そこから引っ張ると結局この話の正しいタイトルって『さよなら(と)絵梨(に言った優太)』だということになるのでした。
 さよならと絵梨に言った優太…が、この話の中でこれ以上ないほどきちんと描かれていることに対しては再び読まれた方全員が頷くと思うんだけど、翻って解釈するこちら側から見ると、
「じゃあこの作品を解釈するにおいて、本気(←と書いてマジと読む世代の私)で読み解かなければいけないのは、『さよならと絵梨に言った優太』のことなんだね??」
 ということになっちゃうのでした。
(くどい、そんな何度も書かなくてもわかる、などと言ってはいけません)
 …だってさ、そうなると『さよなら絵梨』の芯を食った解釈にトライしようとするなら、冒頭の①②の疑問は必ず解かれないといけない、クリア必須のミッションだということにもなっちゃうんだよこれが。

 ①大人になった優太が絵梨と一緒に映画を観なかった(=そして彼女にさよならを言った)のは何故か?

 ②優太が最後に絵梨との思い出の場所を爆破してしまう(=そうして彼女と決別してしまう)のは何故か?

 

 どちらもラストシーンの優太の描写であり、「さよならと絵梨に言った優太」の描写です。
 この「優太 saying goodbye to 絵梨(←くどさを押さえるため怪しげな英語交じり文にしてみました)」を読み解くことって、イコール優太が「 goodbye 」に込めた意味を考えることに他ならないと思うんですよね。
 ここんとこの優太は、映画の主人公であると同時に映画の創り手でもある二義的な存在です。そしてこの「 goodbye 」が、主人公がヒロインに最後に言う台詞でありつつ、ラストの大事な爆発シーンの前に創り手として主人公の口から絶対言わせたかった台詞でもあるという。
 つまりこの「 goodbye =さよなら 」は、この作品においてものすごく重要な台詞だということがわかります。(だからこそタイトルになってるんだよね)
 『ルックバック』のことを考えると、作者の藤本タツキがこのタイトルにも強いメッセージを込めている可能性は高いので、やはり「さよなら(と)絵梨(に言った優太)」が意味することの深堀りは必要かなあ、と思ったりして。
 で、改めて。

 ……なぜ優太は絵梨にさよならと言ったのでしょうか? (②へ続く)

                    

 

 

 

*1:この式は優太の父親が提示したもの。優太=映画/優太の映画=爆発(←ひとつまみのファンタジー)だと定義付けています。

*2:優太のひとつまみのファンタジーの例として父親が語る「幼稚園でお父さんの似顔絵描いても顔がドラゴンになってたし 皆で動物園行った時なんかずっとキリンと話してたよ」からもこれは明らか。似顔絵の顔がドラゴンな時点でそれはちょっぴりのファンタジーではありません。むしろそのファンタジーこそが作品の本質になってしまっているといえる。