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『さよなら絵梨』を読んで(その②)

 母親の死の際にはさよならを言えず、自分はそこから逃げながらの爆発シーンとしてしまった優太が、最後、絵梨にはきちんと決別した上での意志的な爆発シーンを描くことができた、それは端的に彼が成長した、ということの証です。

 …というのがまっとうな解釈と言えますが、まあそれだけじゃつまんないのでもうちょっと構造的に見てみます。

 優太にとっての「爆発」は、何かどうしようもないものへの「反抗」です。
 母親Ver.の時の爆発は、まず肉親の死という避けがたい運命、その死を撮るようにと命令してくる母親、そういう自分を追い詰めてくる悲しくてつらいものをぶっ壊してやりたい、という心情の表れでした。
 では絵梨Ver.の時の爆発は、何に対する反抗なのでしょうか。

 思い出の場所で再会した絵梨は、
「自分は本当に吸血鬼であり、永遠に生きる存在だ」という驚きの事実を述べます。そして、優太が撮った映画が、自分がどんな人間か、どう生きればいいのかを教えてくれると語り、だから一人で生きていくのもつらくないし、自分が何度優太を忘れても、映画を見れば何度でもまた優太を思い出せる、それは素敵なことだ、と語ります。
 …それは確かに素敵なことなのですが、でもね、優太はそこにこそ反抗したかったんでしょうね。
 

 優太が撮った絵梨の映画は、彼女の一回しかない生を撮ったもののはずでした。一回限りの生を絵梨と優太が一緒に生き抜いた、その記憶があの映画だったのです。そしてその意味で優太は強く絵梨を愛していたといえる。
 しかしここで絵梨は(生き返っても本物の優太に会いに行っていないことからもわかりますが)生きている今の優太ではなく、映画の中に閉じ込められた昔の優太と自分を眺めるだけで満足してしまっています。
 それは多分愛ではないですし、本当の意味で「生きる」ということではない。そういうのが「死なない」存在ならではの心の動きだとするならば、もしかしたら、愛には生の一回性がどうしようもなく必要とされるのかもしれない。


 家族をいっぺんになくしてしまい、まさに生の一回性からくる残酷さに打ちのめされて、絶望の底で自死を考えていた優太が、それをやめて絵梨にさよならを言えたのは、ここでの絵梨が象徴する「再現可能な永遠」に猛烈に反抗し、「一度きりの生」をこそ自分は映画として撮ってやる、という、愛の決意からくるものなんだろうなあ、と。
 そうなると、例えどんなにつらくても、自殺なんかしてる場合じゃないのです。
 そういう映画を撮るためには、一度きりの生をまず自分が生ききらなければいけないわけですしね。

 この世は死で満ちている メメントモリ 以上優太でした さよなら

 これは母親を撮った映画をボロクソに言われて自殺しようとした昔の優太の独白です。絵梨との再会場面が(映画の中の)この台詞から始まるのはもちろん作者の強い意図からくるもの。

 繰り返しの場面なんですよね。死と絶望で満ちているこの世にさよならを言う、昔と今の優太。
 でも最後優太の口から出た「さよなら」は、この世に対してではなく絵梨に言ったものでした。
 そして今度の台詞の(優太が口にしていない)前半は多分こう↓なっている。

 この世は生で満ちている


 ちなみにこっち↓は絵梨に映画を誉められた後の優太の台詞。

 皆さん…知ってますか……生命は美しく輝いていて……綺麗なのです 

 

 つまり同じ事なんですよね。死で満ちているということはイコール生で満ちているということであり、生と死は分かち難い一体のものであること。
 そうした生と死の絡み合いから遠く離れた永遠の存在である絵梨に対し、さよならを告げる大人の優太。 

 

 母親Ver.爆発:人の死すべき運命への反抗

 絵梨Ver.爆発:永遠の生への反抗(=一度きりの生への肯定) 

 

 図式化するとこうだよね。(こう書くと大分つまんなくなっちゃうけど…)
 つまり、自分の個性である「爆発シーン」によって映画の中に描きこみたいテーマが、母親Ver.と絵梨Ver.では変化した(…成熟した? ……勇気を持てるようになった?)ということ。
 だからラストシーンの爆発の大きさと迫力は、絶望による自死の決意を翻すほどの、優太の映画(=優太の生)への愛に比例しているものなのでした。

 別の言い方をすれば、「ずっと何か足りない」気がして編集し続けていたあの映画が、やっとここでしっかり完成したといえる。
 絵梨の死を描くことで、同時に彼女の(一回きりの美しい)生を描いたはずだったのに、結局お涙頂戴(=死とは悲しくてつらいもの)の内容になってしまい、本来のテーマである「彼女の生(の素晴らしさ)」が描き切れていなかったのです。
 あのままの映画だと、彼女が生ききったことに対する大きな意味での肯定にはなっていなかったんだよね。
 実はその気付きを優太に与えるため、永遠なる存在として復活した絵梨だったのかもしれません。
 彼がピンチに陥ってこの世から去ろうとする時に現れるのが彼女の持つひとつのパターン(3日後に蘇る=救世主あるあるパターンなのは言うまでもなく)なので、この後優太と絵梨が会うことは二度となかった、ということはつまり、優太が自殺しようとすることはもうなかった、ということがわかります。
 そして今度こそ絵梨の映画を完成させて、

ちゃんと生きようと また映画を作る自信を貰える  おわり

 

 になったというわけですな。

 

 

 


 ……うーん。ルックバックもいい話でしたが、構成の完成度っぷりはとにかくダンチでこっちが上。
 そして私的に、テーマが持っている普遍性も断然こっちが好みだったりする。

 うーん、いやあ、タツキさすがじゃん~~~ほんと~にすごすぎだろ~~!!!! と不遜以外の何者でもない感想をついつい抱いてしまう。彼が今私の近くにいたら、背中バンバン叩いちゃうかも。

 

 

 

 

(おまけ)

 「永遠に生きる」絵梨を吸血鬼というクリーチャーに設定したのにも、作者はちゃんと意味を持たせていると思います。
 「僕のエリ」という映画がイメージソースになっているそうですが、そもそも吸血鬼って血を吸う存在ですよね? そして私のポーな記憶が正しければ、吸血鬼に血を吸われた人間も吸血鬼になっちゃうんだよー、というお約束があったはず。
 絵梨が母親(的な立場を持つ絶対者)の再現である、という解釈はこの話を読む上でわりと王道なものだと思いますが、うーん、まず最初に母親が優太の血を吸っちゃっているんですよね。
 TVのプロデューサーだったという優太の母親は、自分が死ぬことをネタ(?)にして息子に映画を撮らせようとしちゃう、何というかひどく極道な人ですが、生と死こそが撮る価値のあるものである(時には何かを犠牲にしても)という彼女の考えは、ばっちり息子に引き継がれているといえます。
 映画を撮る(…漫画を描く?)ことは、時として人の血を吸うことに近い、という裏テーマも、父親の台詞から何となく感じ取れたような。
 そうやって撮られた映画が「永遠の」存在となり、それを見た人間もまた吸血鬼化してしまうことがあるという。
 つまり、優太が再会した絵梨が言うところの「……それって素敵なことじゃない?」の素敵さも、全然否定してないストーリーなのですね。 

 うんうん、やっぱり名作だなあ~~~